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名古屋高等裁判所 昭和24年(控)267号 判決

被告人

李圭振

主文

本件控訴は之を棄却する。

理由

弁護人鈴木貢提出の控訴趣意の論旨は

原審の訴訟手続には法令の違反があり、その違反は判決に影響を及ぼすことが明らかである。

刑事訴訟法第二百九十六條は「証拠調のはじめに、檢察官は証拠により証明すべき事実を明らかにしなければならない旨を規定している。これは公判手続における檢察官の所謂冐頭陳述であつて、同法がこの冐頭陳述を規定している趣旨は裁判官は事件の詳細に通じないで法廷に臨むのであるから(またそうであらねばならぬ)、公訴事実について立証責任を負う檢察官をして、証拠調の請求に先だち証拠により証明すべき事実、即ち訴因たる事実を構成する個々の事実及び訴因たる事実の存在を間接に推測せしめるに足りる個々の事実を明らかにして証拠調段階の冐頭において立証方針を陳述させることにより、爾後の訴訟手続を公正且円滑に進展せしめようとする点に存する。されば檢察官の冐頭陳述は公判手続において欠くことのできないものである。このことは刑事訴訟規則第百九十八條第一項に「裁判所は、檢察官が証拠調のはじめに証拠により証明すべき事実を明らかにした後、被告人又は弁護人にも証拠により証明すべき事実を明らかにすることを許すことができる」と規定し、被告人側の冐頭陳述がその許否を裁判所の自由裁量に委しているに反し檢察官のそれは不可欠の前提とされていることに徴しても明白である。然るに原審の公判手続においては檢察官が右の冐頭陳述をなして居らないから、この点において、原審の訴訟手続には法令の違反がある。

尤も原審における昭和二十四年四月九日の公判調書には「裁判官は証拠調に入る旨を告げた。檢察官は、起訴状記載の日時場所に於て被告人が札束を所持して居たのを逮捕した事情に付(一)現行犯逮捕手続書原田温夫が被害を受けた事実を立証の爲(二)原田温夫の上申書及司法警察員に対する供述調書、(三)同人の檢察官に対する供述調書、被告人の所持して居た現金を押收領置した点を立証の爲、(四)領置調書、被害者に現金三万円を仮還付した関係に付、(五)請書、司法巡査が被告人を逮捕した前後の事情を立証の爲、(六)千田明、犬飼高次の檢察官に対する供述調書、起訴事実全般を立証の爲、(七)被告人の司法警察員に対する供述調書、(八)被告人の檢察官に対する弁解録取書及供述調書の各証拠申請をした上、(一)(二)(三)(四)(五)(六)の書類を証拠とすることに付被告人に同意を求めたり」との記載あるも、これは檢察官の証拠調請求のあつたことを示すにとどまり冐頭陳述をしたことの証明にはならない。もしそれを公判調書の所謂「証拠申請」が立証趣旨(証明すべき事項)の陳述を伴うとの故を以て冐頭陳述を兼ねる(若しくは含む)ものとして扱わんとするものがあるとすれば誤りである。元來刑事訴訟法第二百九十六條の檢察官の冐頭陳述において明らかにしなければならないのは「証拠により証明せんとする事実」であつて「証拠」ではない。從つて冐頭陳述において証拠の具体的内容を述べることは許されない、同時に、他面証拠能力ある証拠に基かないで述べることはできないのであつてこれは裁判官に事件について偏見又は予断を生ぜしめることを防止するため絶対的の要請である(同條但書)。然るに右公判調書の記載によつて明らかな如く原審の公判手続においては証拠調段階の冐頭に檢察官は証拠の具体的内容を述べているのみならずこれら証拠中(一)(二)(三)(六)の如きはいずれも刑事訴訟法第三百二十一條第一項第二号又は第三号に該当する書類であつて被告人が証拠とすることに同意した場合に限り証拠能力が認められる資料であるから被告人の同意のないうちにこれらの資料に基いて述べることはできないものと謂わねばならぬ(現に右公判調書の記載によれば被告人はこれらの書証については異議を述べており、証拠とすることに同意しておらぬから、いずれも証拠能力がないのである)。それだのに、檢察官は右証拠能力のない資料に基いて立証趣旨の名の下に事実を述べているのであるから仮に右の所謂「証拠申請」を冐頭陳述を兼ねたものとすれば刑事訴訟法第二百九十六條但書の規定に違背するものである。從つて原審の公判手続には適法な檢察官の冐頭陳述がなされていないというの外ないのである。

而して右の法令違反は刑事訴訟法第三百七十九條に所謂判決に影響を及ぼすこと明らかであるから原判決の破棄を求めるため控訴を申立てた次第である。(名古屋高等裁判所昭和二十四年控第四五号同年六月一日同裁判所刑事第三部言渡判決参照)

二、援用証拠

(1)  訴訟記録

(2)  原審公判調書(昭和二十四年四月九日)

と謂ふにある。

依つて按ずるに檢察官が刑事訴訟法第二百九十六條の規定に違反した場合に於て、之れが爲め直ちに公判手続の違法を招來し破毀の原因となるや否やに就て考察するに、此問題は同法第一條裁判所規則第百九十八條等を綜合し公判手続の実際運用に支障を生ぜしめないように解釈せねばならぬ問題である。今刑事訴訟法第二百九十六條の規定を看るに同條本文の所謂冐頭陳述の範囲、程度に就ては何等の制限が無く、また同條但書の証拠能力の点に於ても復雜難解であるから檢察官に於て適法なりと信じて陳述した事項が客観的に違法あるに帰着するとしても、之れが爲め悉く公判手続の違法を招來し、破毀の原因となるものとせば殆んど公判手続の円満進行を期することが出來なくなり結局刑事訴訟法第一條所定の適正迅速の趣旨に反するに至るものと謂はなければならない。何んとならば裁判所規則第百九十八條に依れば「裁判所は檢察官が証拠調のはじめに証拠により証明すべき事実を明にした後被告人又は弁護人にも証拠により証明すべき事実を明にすることを許すことが出來る」と規定し、此場合に於ては被告人又は弁護人に対しても檢察官の場合と同一の制限を置いてあるから、斯る場合に法律に通曉せない被告人が適法と信じまたは故意に該制限に違反した陳述をした場合に於ては最早裁判官を交替するにあらざれば公判手続を進行することが出來なくなると同一の理に帰着するからである。

以之看之同條の規定は檢察官に対し同條所定の義務を負担せしめたに止まり檢察官に於て例令この義務に違反としたとしても之が爲め直ちに判決手続の違法を招來せないものと解せざるを得ないから此点に於て本件控訴は己に理由がないのみならず、更に進んで記録を査閲するに原審第一回公判調書に依れば

裁判官は

証拠調に入る旨を告げた

檢察官は

起訴状記載の日時場所に於て被告人が札束を所持して居るのを逮捕した事情に付

一、現行犯逮捕手続書

原田温夫が被害を受けた事実を立証の爲め

二、原田温夫の上申書、及司法警察員に対する供述調書

三、同人の檢察官に対する供述調書

被告人の所持した居た現金を押收領置した点を立証の爲め

四、領置調書

被害者に現金三万円を仮還付した関係に付

五、請書

司法巡査が被告人を逮捕した前後の事情を立証の爲め

六、千田明、犬飼高次の檢察官に対する供述調書、起訴事実全般を立証の爲め

七、被告人の司法警察員に対する供述調書

八、被告人の檢察官に対する弁解録取書及供述調書の各証拠申請をした上

(一)(二)(三)(四)(五)(六)の書類を証拠とすることに付被告人に同意を求めたり

と記載せられてあつて右記載に依つて認められる檢察官の陳述を刑事訴訟法第二百九十六條本文の趣旨と対比するに何等の違法をも発見することが出來ない。惟ふに刑事訴訟法第二百九十六條の所謂冒頭陳述の範囲程度に就ては何等の制限が無いことは前述の通りであるから必ずしも起訴事実の全部に亘り更に具体的に其事実関係を明かにし、それを將來証拠に依つて証明すべき意図を陳述するの要なく、檢察官に於て現在準備してある証拠に基き該証拠に依つて如何なる事実を立証せんとするやを明にするを次で足るものと解せざるを得ない。

蓋し檢察官に於て被告人に犯罪の容疑ありと思料し、之に対し公判の請求を爲した場合に於て証拠調の冒頭迄の間起訴事実全部に亘り証拠を準備するの必要なく証拠調手続の終了に至るに準備提出すれば足るのであつて此事は同法第二百九十八條の法意に徴しても容易に首肯し得るところであるから斯る場合檢察官をして現在準備してない証拠に基いて証明すべき事実を陳述せしめることは事実上不能を強いるものであつて此理を推して進めは結局檢察官の冐頭陳述なるものも前述の如く現在準備してある資料に依つて証明せんとする具体的事実の陳述と解するを以て隠当とすべく從つて前記挙示の公判調書の記載に示す檢察官の陳述は各証拠に依つて証明せんとする事項を具体的に述べて居るのであるから何等の違法は無い。また弁護人は原審公判手続に於ては証拠調の段階の冐頭に檢察官は証拠の具体的内容を述べて居るのであつて之れは裁判官に事件について偏見又は予断を生ぜしめる虞れがあるから違法であると主張するか前掲公判調書の記載に依つて明な如く檢察官は証拠の名称を述べたに止まり右証拠の内容については何等の陳述もして居ないのであるから此点に関する論旨も亦理由がない。次に弁護人は原審公判調書に依れば檢察官は予め調査しなければ証拠能力の無い資料又は被告人が同意しなければ証拠能力の無い資料に基いて、被告人が同意するや否や不明の裡に立証すべき事実を述べて居るから之れ亦刑事訴訟法第二百九十六條但書の規定に違反し破毀を免れないと主張するが前掲公判調書記載の各証拠は刑事訴訟法第三百二十一條乃至第三百二十三條に規定せられる書類であつて例令被告人が同意した場合は於ても同法第三百二十六條の規定に從ひ該書類が作成され又は其内容が供述されたときの情況を考慮し相当と認められるときに限り証拠能力を有するものであつて而も相当と認めるや否やは結局裁判所の判断に俟つの外は無いのであるから若し弁護人所論の如く被告人が同意するや否や、裁判所が相当と認めるや否や不明の裡に檢察官に於て該証拠に基いて所謂冐頭陳述を爲すことが出來ないものとせば結局檢察官は書証に基く冐頭陳述が出來ないことゝなり刑事訴訟法第一條の趣旨に反する結果を招來するに至る。此理は同法第三百二十五條の「あらかじめ調査した後でなければ証拠とすることが出來ない資料」の場合も同一である。而も之等の資料は同條並に同法第三百二十六條所定の趣旨に徴するも既に証拠申請が爲された場合に於ける資料を指すものであるから勿論檢察官の冐頭陳述に包含されたものであるか又は同法第二百九十八條に基いて申請されたものでなければならない。依之看之同法第二百九十六條に所謂「証拠とすることが出來ない資料」とは既に証拠能力無きものと確定した資料又は檢察官に於て証拠能力無きものと信じた資料の意味であつて証拠能力未確定の間に於ける資料を包含しないものと解するの外は無い、果して然らば前掲公判調書の記載に依つて明な如く檢察官が同法第三百二十五條、第三百二十六條の要件を具備するや否や不明の資料に基いて爲した冐頭陳述は勿論適法と謂ふべく此点に於ける論旨も亦理由が無い。

仭て本件控訴は総て理由が無いから之を棄却すべきものとし刑事訴訟法第三百九十六條に從ひ主文の通り判決する。

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